東浦町八巻古窯出土の刻文短頸壺
今回紹介する東浦町八巻古窯は東海市・知多市・阿久比町との境界付近にあり、北西に延びる丘陵の標高50mの斜面に構築されています。
八巻古窯が調査されるきっかけとなったのは、愛知用水の建設工事です。発掘調査は昭和36年(1961)に愛知県教育委員会、名古屋大学考古学研究室によって行われ、窯跡が隣接して3基発見されました。まったくの偶然ですが、中世常滑窯の研究拠点となる陶芸研究所が竣工した年でもありました。
発見された窯跡は小型の窯で、山茶碗や小碗が豊富に出土しましたが、常滑焼として認知度の高い大きな甕は1点も出土していません。また、山茶碗と小碗の形から12世紀前半から末頃まで継続していたと考えられます。
出土したやきものは山茶碗や小碗を中心に、広口瓶、短頸壺、片口鉢、鍋、水滴、蓋、陶錘などが見られます。タイトルの刻文短頸壺は発掘調査の前に発見されましたが、その重要性からとこなめ陶の森 陶芸研究所に寄贈されたものです。ちなみに短頸壺は文字通り頸の短い壺で、弥生時代からみられる形です。古代から中世の時代になると、お経を納めた経筒を納める外容器に用いられたとも言われていますが、詳しくはわかっていません。
さて、八巻古窯の短頸壺を詳しく見ていくと、口径(口の直径)は14.4㎝、頸の部分は上に向って直立気味に立ち上がっています。肩はやや張りがあり、内面には粘土紐の接合部が荒々しく残されています。肩から下は発掘調査でも発見されていないのが残念ですが、全体的に薄作りで、12世紀の中頃に作られたと考えられます。外面の刻文を左から見ていくと、楓の葉のような意匠が弱い筆圧で描かれ、その下には縦方向に波線が四行刻まれています。文字が読めなかったため、陶工がデザイン化したような雰囲気すら感じさせます。中央部には「大」という文字が4つ刻まれていますが書き順もバラバラです。毎年8月16日に行われる京都の五山送り火の「大文字」が連想されることから、吉祥や呪符のように考えられてきましたが諸説あります。他にも中世の甕や壺には「大」の他に「上」や「〇」、「カ」、「メ」、「サ」に近似する意匠があり、装飾的な要素を強く感じさせます。他にも①「Λに四本の刻線」、②花押(署名の代わりに使用される記号)状意匠、③押印文状意匠など魅力的な刻文もみられます。この短頸壺片は古くから知られていますが、押印文状意匠は改めて注目する必要があります。常滑で作られた甕は胴部に押印と呼ばれる判子が帯状に押されていますが、短頸壺には押印が認められません。そのうえ、この押印はあくまでもヘラか棒状の工具を使って押印風の図柄が刻まれています。このことは八巻古窯で活躍した陶工が甕類を生産する陶工と何らかの情報を共有していたことを物語っています。
短頸壺は知多半島だけでなく、渥美半島でも作られています。中世で最も有名な短頸壺は渥美半島の田原市に位置する国指定史跡大アラコ古窯で発見された顕長銘の短頸壺です。大アラコ3号窯から出土した顕長銘のある短頸壺には「正五位下行兵部大輔兼三河守藤原朝臣 顕長 藤原氏 比丘尼源氏 従五位下惟宗朝臣 遠清 藤原氏 惟宗氏 内蔵氏 惟宗氏尊霊 惟宗尊霊 藤原尊霊 道守尊霊」の63文字が14行にわたって刻まれています。文字の内容から宗教に関連していることが考えられます。ここで登場する藤原顕長(1118-1167)は平安時代後期の公卿で、5歳にして従五位下の叙爵を受け、各国の国司を歴任、最後は権中納言の要職に就いています。顕長が正五位下で三河守であった時期は2回あり、保延2年から久安元年(1136~1145)、久安5年から久寿2年(1149~1155)とわかっています。そして山梨県南巨摩郡南部町の篠井山経塚では、顕長が生産した短頸壺が搬入されていることがわかっています。このことから、顕長銘のある短頸壺は作られた古窯が判明しているだけでなく、当時の中央政権との関係や宗教観を示す重要な資料と考えられます。
八巻古窯の刻文短頸壺は陶芸研究所の顧問を歴任した故沢田由治氏が国宝の「秋草文壺」を常滑窯で作られたとする根拠とした資料でもあります。現在では渥美窯がその生産地として有力視されていますが、今でも沢田氏の言葉を信じている人がいます。最後にもう一つ興味深い短頸壺を紹介します。それは常滑市の多屋に位置する毘沙グセ古窯から出土したカヤツリ草に似た草花が描かれた陶片です。そこには中世常滑窯をとおして貴族や武士が求めた「平安の美」が広がっています。