上村白鷗の蝦蟇仙人像
上村白鷗(かみむらはくおう)は江戸時代における常滑の名工の第一に数えられる人物です。白鷗は通称を八兵衛といい、宝暦4年(1754)、常滑の北条の庄屋の八兵衛の次男として生まれます。八兵衛家は農業を営むかたわら甕造りを家業とした窯業生産にも従事していました。上村の苗字は古くは村上として記録されていますが、後に上村に改めたようです。白鷗の本格的な陶芸活動は作品に書かれた年齢から推測すると、還暦後に始まり、天保3年(1832)の79歳で没す17、18年間が白鷗の陶芸、文化活動の最盛期に当たります。
白鷗の作品に茶の湯で用いられる水指、香合、水注、手鉢、花入などがあり、自らの窯で焼成しています。白鷗の窯は薪を用いた大窯であったため、薪の灰が自然釉となり、豊かな表情の作品が当時の茶人を中心に好評を博しました。他にも名古屋の茶人として知られる平沢九郎、京都の9代楽吉左衛門了入と深い親交があり、名古屋や京都で楽焼を楽しんでいます。また、作陶の技を磨くばかりでなく、俳句や連句を嗜むなど風雅の道を極めていきました。
白鷗の最も愛されている作品に蝦蟇仙人(がませんにん)が挙げられます。これは青蛙神(せいあじん)と呼ばれる足が三本のガマを従えて妖術を使うとされる蝦蟇仙人を画題とした陶像です。立膝で座り、右手でガマの後足、左手で抱きしめる姿がなんともユーモラスに描かれています。本作の裏面には、「文政五年春 七十翁陶白鷗工造」と銘があることから70歳の頃の作品です。
蝦蟇仙人は中国ではマイナーな仙人ですが、日本では人気があり、保示の正住院には江戸時代に描かれた県指定文化財高久隆古(たかくりゅうこ)の襖絵に観ることができます。
正住院蔵 高久隆古作 蝦蟇仙人
さて、本作は常滑の土を精製して、砂粒の少ない滑らかな胎土を用いています。内面は無釉で赤褐色を呈しています。頭部から肩口のガマにかけて、薪窯の自然釉が薄くかかっています。
体部は空洞で、内面の状況から甕や壺と同様に紐作りで立体的に造形されていることがわかります。白鷗による土の仕事は甕造りの家で育ったので、ロクロを用いた作品はありません。ヘラとユビを巧みに用いた技が顔の造形や着物の質感に表れているのが特徴です。
頭部は外からではわかりませんが、別造りで差し込んで接合しています。接合部の外面は剥落が目立ちますが、髪の先端が木の葉となった装飾が貼り付けられ、補強とともに面妖な風貌を巧みに演出しています。
蝦蟇仙人像の裏面 上村白鷗のヘラ捌き
ここまで蝦蟇仙人をみてきましたが、上村白鷗が常滑の名工として有名となったのは作品だけでなく、人としての魅力があったからに違いありません。江戸時代に書かれた『尾張名所図会』に白鷗のエピソードが掲載されているので最後に紹介します。
八兵衛おどり 常滑村の陶工白鷗俗名を八兵衛という名工にして、天明寛政の頃、世になる禽獣蟲魚等の香合香炉水指などを種々作る。そのかたち奇にして雅趣あり。実に妙手なり。又俳諧に長し、手跡をよくす。遊興にふけり酒を好む。酔狂かならず手をたたいてうたい立ちて踊る。或いは衣裾をからげて尻の露わなるなるをも知らず。常にふんどしを嫌いて用いざれば、前露わなり。貴人の前、富豪の席といえどもはばかる事なけれど、その失礼を咎める人なく、返って興ありと賞せらる。実に徳の至れるなるべし。世にふんどしせざる者を八兵衛ということはこの白鷗より始まりしとぞ。その頃、倹約流行してふんどしをさえ、用いる人稀なり。たまたま絹木綿等のふんどしする者をかえって古風なりと笑えり。されば柳樽にも
「 古風なる 人はふんどし あごでしめ 」
という句見えたり。白鷗が墓は北条の正住院にあり。銘文甚雅なり。