常滑を詠む 応用知識 生涯一陶工 沢田重治
常滑で沢田重治(さわだしげじ)と言えば、屋号の「四郎兵衛さん」の愛称で親しまれてきた陶工です。沢田重治さんは明治39(1906)年、江戸時代から7代続く窯元「丸四(まるし)」の長男として生まれました。
当時の「丸四」が使用していた窯の写真は残念ながら残っていませんが、明治45(1912)年に刊行された『常滑陶器誌』によると、壹號備前窯(いちごうびぜんがま)、貮號(にごう)備前窯と二つの窯を持っていたことが書かれています。二つの窯はどちらも素焼窯(すやきがま)とあり、壺や甕などの大物を焼成する単室の薪窯であったことがうかがわれます。素焼窯とは、少なくとも江戸時代をとおして、甕や壺が焼成された窯の形態で、山の斜面に築かれた半地上式の単室の構造で、江戸時代の常滑では瓶窯(かめがま)とも呼ばれていました。
沢田さんは昭和44(1969)年に製陶業を長男に譲ると、より一層大物造りに専念することになります。沢田さんの壺や甕は「ヨリコ造り」と呼ばれる成形技法で作られており、それが常滑の特徴でもあり魅力であるともいえます。これは太さ7~10㎝の紐というよりは棒に近い粘土紐を肩に担いで、自分がロクロのように回りながら粘土を積み上げていく技法です。その技法がどのようにして常滑に定着したのかは明らかになっていませんが、その始まりは平安時代末期にまでさかのぼることができます。今ではこの技術を保持している作家は少なく、市指定無形文化財保持者として前川賢吾さんが唯一となっています。
平成27年度の夏の企画展「生涯一陶工-沢田重治-」展と題して、沢田さんの作品を約120点展示しました。その中には生前の沢田さんを記録した映像も公開しており、「作品は、どれだけ作っても満足するものはなく、生涯が修行」、「これまでの人生でごまかしたこともなく、人をだましたこともなく、本当に正直に生きてきた」と語っています。沢田さんにとって大きな焼き物を作ることはまさに人生そのものであり、「今では買い手もいない。しかし、無心に大物を造り続ける」と語り、その儲けとは無縁な作陶スタイルと人柄が功を奏し、逆に人の心を惹きつけているのかもしれません。
今では沢田さんの名前を知る人が少なくなってきましたが、一昔前の旧常滑町界隈ではとにかく有名で、沢田さんの壺や甕を持っているという話を何度も聞くことがありました。そして、常滑の小・中学校や文化会館などの各公共施設にも沢田さんの大きな壺が収められています。他には福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸といった歴代総理大臣や元プロ野球選手・監督の王貞治といった日本を代表する著名人やスターの家にも沢田さんの大壺が収められています。
こうした沢田さんの功績が認められ、昭和54(1979)年には伝統工芸士、昭和57(1982)年に常滑市指定無形文化財保持者に認定され、昭和61(1986)年には「勲七等青色桐葉章」を賜っています。
沢田さんの作品の中で最も大きな作品は昭和56(1981)年に直径2m3㎝、重さ450㎏の伝統技法を生かした大皿があり、現在はとこなめ陶の森 資料館の玄関前に展示されています。これは平安時代末期から続く伝統技法の限界に挑戦した取り組みで、口癖であった「生涯一陶工」という言葉に恥じない気迫と努力を惜しまない明治生まれの気骨さを感じることのできる作品です。
企画展では沢田さんの作った小さな壺をたくさん展示することで、壺の形態の多さと釉薬にこだわっていた沢田さんの新たな一面を知ることが出来ました。特に平安時代の灰釉陶器と呼ばれる壺に求められるモチーフや、中世常滑窯で焼かれた三筋壷や突帯長頸壺、広口壺を写したものや、逆に沢田さんオリジナルの文様や形状をもつ壺などがあります。つまり、伝統に縛られることなく、創造性の溢れる作陶スタイルを確立していったことが明らかとなりました。
晩年、沢田さんは「自分が死んだら自分が作った壺は割って捨ててほしい」、「いつまでも年寄りに(壺を)作らせるな」と語っています。それは職人気質であった沢田さんだからこその重みを持つ言葉であったと同時に、常滑の伝統から引き出される新たな可能性を次世代にみていた言葉であったのかもしれません。行年92歳。平成11(1999)年に老衰でこの世を去りますが、沢田さんの技術は次世代に受け継がれており、作られた壺は今も多くの人に愛され続けています。